2019年3月までの4年間、私は老人ホームでの仕事のかたわらで福祉系大学で学び、社会福祉士の資格取得を目指していた。
その最終年では、近郊の障がい者福祉施設に1か月半ほど通わせていただいて相談援助実習に挑むことになった。
様々な障がいを抱える多くの入所者さんや利用者さんとの交流の日々。
はじめはどこかぎこちなかった私の存在も、実習を重ねる毎に自然にその場に溶け込んでいくのを感じていた。
もちろん現場実習は大学の厳格な授業であるから、その本分を果たすことが一義的にある。
とはいえ人と人とが交わる環境にあっては、授業という本流に沿いながら流れる小川のように、彼らと私との人情のやり取りが確かにそこにあった。
「佐々木さん、明日で実習が終わりだって聞いたけど本当なの!?」
ある入居者さんがすれ違いざまに話しかけてくれた。
私はとっさに、ひっそりと居なくなろうとしていた自分を恥じた。
彼女は車いすの物入れからファイルを出すよう私に依頼した。
取り出したファイルには、彼女がしたためたハガキ大の絵手紙が無数に収められている。
「その中からどれか選んでください。差し上げたいです。」
私は喜びと好奇心のなか、一生懸命にファイルをめくった。
ファイルをめくりながら、彼女が経てきた人生をものすごいスピードで遡っていた。
私が選んだ絵手紙は、凛とした花が描かれたもの。
そこに添えられていた言葉。
【幸せは、自分の心が決める。】
確かにそうだ、そうなんだ。
当時、私はその絵手紙を帰宅してからもじっと見つめていた。
相談援助実習に挑みながら、結果的に私の方が救われていることに気づき、彼女への感謝の想いがあふれていた。
元来、私には【こうあるべき】という思考が、まるでカビのようにこびりついていたのだ。
こうでなければ幸せになれない。本来人生はこうあるべきだ。という自分に課した呪縛のようなもの。
【べき思考】はその人をがんじがらめにして疲弊させる。
実習を終えて職場に復帰した私は、数か月後の卒業と同時に、勤めていた老人ホームを退職することになった。
そこでもひっそりと身を引こうとしていたが、私の退職予定をどこかで聞きつけた同期が、勤務の最終日に私のユニットを訪ねてきてくれた。
「なんか辞めるって聞いたから、これ。」
同期ではあったが、ユニットも違うこともあって普段はなかなか面と向かって話すこともなかった彼女が、餞別にと小さな箱を私にくれた。
私はお礼を伝えつつ、いくつかの言葉を交わして彼女と別れた。
帰宅した私は、その小さな箱を開けて中身をとりだした。
そこには青いマグカップが入っていて、こうデザインされていた。
【IF YOU WANT TO BE HAPPY,BE】 (もし、あなたが幸せになりたいなら、なりなさい。)
もっと言えば【幸せになるかどうかはあなたが決めること】ということだろうか。
べき思考からの解放。
私がそれでいいと思えば自然に幸せになれるということ。
それは決して諦めるということではない。ありのままの自分を受け入れて自分を赦す(ゆるす)ことなのだ。
これは他者へ抱く私の感情にもいえることで【あなたはこうあるべきだ、でないと許せない】という私の乱暴な決めつけを抑制して戒めてくれる。
私は、かつて福祉施設でいただいた絵手紙を思い起こし、同じように同僚へ感謝した。
そして、青いマグカップに淹れたブラックコーヒーを飲みながら、卒業したばかりの施設でのあれやこれやを思い起こして懐かしんだ ――――
あれから5年。
自宅のデスクの傍らに、いつもその絵手紙とマグカップが置いてある。
「佐々木さん、幸せは、自分の心が決めるんよ。」
「もし、佐々木さんが幸せになりたいなら、なればいいんよ。」
彼女らの声が、私を今もなお支えてくれ、励ましてくれている。