「私、本当はあなたは福祉の人だと思っているの。」
十数年前、全くの異業種に勤めていた私に、福祉系大学卒の経歴をもつ同僚が呟いたこの一言がなぜか強烈に胸に残り、向こう見ずを絵に描いたように福祉業界へ転職した2013年。特別養護老人ホームで高齢者介護に従事しながら福祉系大学で4年間学び、泣いたり笑ったり、転がったりまた起きたりしながら研鑽を積んだ日々。やがて諸々の資格を取得した私は、導かれるように障がい者福祉分野へとステージを変え、幸運にもこうして地域福祉実践を重ねることができている--
私がなぜ福祉の世界に身を置いているのかを誰かに問われて話す時、私はいつもこのエピソードを伝えることで済ませている。というよりは誤魔化してきた。なぜならこの話はあくまで私の転職のきっかけに過ぎないからだ。
「なぜ?」と洞察するように自問すれば、少しずつ気づき始めたことがある。
数年前、ある利用者さんからイベントで登壇する際の原稿の代読を依頼され、私は快くお引き受けしたことがある。発表の内容は充実しており、指定された時間内に読みあげることに不安を感じた私は、社内の仲間にリハーサルとして電話越しに聴いてもらい、助言を求めることにした。
初めて読ませていただく利用者さんの自分史。冒頭の挨拶部分を過ぎ、彼女が一生懸命に綴った自身の障がいやご家族への想いを読み進めるうちに、私は涙があふれてきて遂に声に出すことができなくなった。気が付けば電話口で聴いてくれていた仲間も一緒に泣いていた。リハーサルは大失敗である。でも、考えてみて欲しい。この世に、社員同士が涙を流しながら携わる職業が果たしてどれだけあるだろうか。
そして、この時私が流した涙は、利用者さんへの単純な同情心だけではないと感じた。私が彼女に涙するその向こう側に実は私もいて、同時に慰められているような気がしたのだ。
私がなぜ福祉の世界に身を置いているのか? その答えは【私が誰かを助けることで、結果的に自分を救っているから】なのかもしれない。助けようとする対象と私が絡まりながら、まるで螺旋階段のような人生を共に駆け昇っているように。これは、社会福祉士としてはあるまじき価値観、福祉を実践する者にあるべき心持ちから外れているかもしれない。適応機制でいうところの【代償】もしくは【昇華】と言えるだろうか。だが、今の時点では私はそれでもいいと思っている。私と関わる誰かも、私も、同時に幸せを感じられる限りにおいては。
かつての同僚のあの一言の答え合わせをするにはまだまだ早いけれど、こうした経験を何度も積み重ねられるきっかけをくれたことに、私はいつも感謝の気持ちで満たされている。